赤十字パートナーシップ講座の目的は幸せを実感してもらうことではない

2019年1月12日

自分よりも貧しい人や苦しんでいる人を見ることで己の幸せを再確認する学生たち

「日本に生まれてよかった、幸せでよかった」という反応

世界には信じられないくらい厳しい環境で苦しんでいる人たちがたくさんいることを知った。自分たちは恵まれているということがわかった。

 赤十字パートナーシップ講座の授業を受けた感想として、学生がこのようなことを書いてくる。しかも、多くの学生に共通するトーンでもある。

日本に生まれてよかった。この時代に生まれてよかった。もっと贅沢をしたいなどと思って不足を嘆いていたが、今でも十分に幸せなのだということがわかった。この幸せに感謝していきたい。機会があれば、お釣りの小銭を募金してみようかな。

 ああ、そう思うのは自然なことなのかもしれない。しかし、それで終わってしまってよいのかな。われわれは君たちに己の幸せを再認識してもらうだけのために授業をやっているのではない。そこを越えて行ってほしいのだ。そして、越えた先に本当の意味での人間の幸せを見つけてほしいのだ。

「物質的に恵まれていれば幸せ」という勘違い

 言っておくけど、君たちは決して幸せそうには見えないよ。難民キャンプで身を寄せ合い、助け合って生きている人たちの方が、人間として大事な部分に気づいているという意味では君たちよりも幸せなのかもしれないよ。不便で苦しい環境で暮らしている人たちは、自分たちよりも不幸せに違いないと決めつけているそこの君。彼らの存在を自分が幸福感や優越感を覚えるための道具に使うのはやめてくれないか。
 君たちは確かに物質的には豊かで恵まれているのかもしれない。しかし、精神的には貧しくて惨めなのかもしれないよ。利己的で、自己中心的で、無い物ねだりを繰り返し、常に何かを渇望しては失望し、世間体を気にしてビクビクしながら首をすくめてやり過ごし、自分は無力だと決めつけて、何も動こうとはしない。見てしまったのに、見て見ぬふりをする。気づいてしまったのに、気づいていないふりをする。直接手を下すことはないが、見過ごし、見殺しにする。

微力だが、無力ではない

 人びとの苦しみや痛みを取り除いたり軽くしてあげるためにできることはなんだろうか。幸せな人間が不幸せな人間に施しをしてあげるのではない。たまたま物質的かつ精神的に恵まれて余裕のある環境にいる人たちが、たまたまその時に苦しい環境に置かれてしまった人たちに救いの手を差し伸べるという、同じ人間として当たり前のことをするだけだ。そしてその瞬間、救う人と救われる人の双方に、人間としての幸せが生まれるのではないか。
 君たちは微力かもしれないが、無力ではない。声を上げることができる。手を差し伸べることができる。自ら一歩踏み出すことができる。

変えてゆくべき場所は身近なところにもある

 君たちが変えてゆくことのできる場所、変えてゆくべき場所は、遠く離れた地球の裏側だけではない。君たちの家族、友人、知人、近くに住んでいる大勢の人たち。そういった身近なところにも、人道や人権の侵害や危機、偏見や差別の問題などはたくさん存在しているだろう。それらに対して、微力ではあっても声を上げ、手を差し伸べ、行動してゆくことができるのではないだろうか。
 君たちは最も身近な存在である両親に対しても、社会的役割というラベルを貼り付けて一方的な期待を押し付けてはいないだろうか。「お母さんなんだから、文句も言わず家事をして家族の面倒を見るのは当たり前だし、それに幸せを感じるべき」とか、「お父さんなんだから、家族を養うために外で働いて稼いでくるのが常識、自分のやりたい事なんかは後回しにすべき」といった決めつけをしていないだろうか。そのように決めつけて接している限り、最も身近で親密な関係にある両親でさえ、君たちにとっては人間ではなく単なる「父」や「母」という役割に矮小化されてしまっているのではないだろうか。
 他の人たちを、自分と同じ「人間」として見る。役割というラベルではなく、生きている人間として見る。そして、同じ人間として「ともに生きて行く社会」において、「人道、人権、多様な価値の受容」ということがどのような意味を持つのかについて考えてほしい。自分に何ができるのかということを真剣に考えてほしい。


 今年の赤十字パートナーシップ講座も前半が終わった。後半の7回を通じて、「幸せを再認識することができた」という感想を越えた先の世界にたどりついてもらえることを切に願う。